占いの起源と成り立ち

仙翁流人相学「人相のルーツとその意味を探る」

2018年4月15日

どうも、占術家の仙翁(センオウ)です。

今回は、人相学のルーツについてご紹介していきたいと思います。

私の記事では、日本における人相学のルーツは、「水野家」であると言う事をお伝えしてきました。

しかし、世界の人相学のルーツについてはあまり深く触れていませんでした。

と言うのも、世界の人相学のルーツはあいまいだったからです。

最近、いろんな勉強会に赴くことがありまして、確からしい内容を確認できたのでそれを記事にしてみようと思います。

世界の人相学のルーツ

人相学のルーツは、人類誕生と共に始まったと言ってもよいでしょう。

太古より、人類の生活は、水を求め、狩をし、木の実を拾う毎日でした。

狩猟が得意な人種、魚を取るのが上手い人種、木の実や山菜を取るのが上手い人種など生活圏が変わると嗜好も変化し、得意分野も変化します。

その変化を顔と体つきから、関連性を自然に身に着け、お互いを知る手掛かりとしていったのが、人相学の始まりであり、ルーツだと言われています。

人相学とは、人の外形(顔、身体すべてを含めて)より、内面(心、生格、行動)を察し、判断するもので、形貌学(ケイボウガク)、面相学、人相術、読顔とも呼ばれています。

よく、巷ではやっている人相本を見ると、人の顔のみを読み取って運命を定めると言う内容の本を良く見かけますが、あれは半分正解で半分ウソに様な気も致します。

さきほども述べましたが、人相学は、その人の生活暦が大きく作用する学問であるため、顔だけでなく、体つきや服装なども観察の対象になるからです。

また、2000年近く前に「神相全篇」の中で、「相があっての心ではなく、心あっての相である」と書かれています。

人の心が変化すると人相はいかようにも変化すると言う事ですね。

その神相全篇では、「相は心によって生ず、心は形の先にあり、形は心の後にあり」と説いています。

世界で初めて人相学が出てきた書物

人相学が書物として現れたのは、伝説の世界の事です。

約2700~2400年前の「春秋時代」の左伝国語(中国歴史書・・・日本の古事記に相当するもの)に人相のみによる占いが記録されています。

これが世界で初めて人相学が現れた文書です。

この文書は、紀元前770年 左伝国語より(当時の日本は縄文時代と推定)

左伝の文公元年に父・僖公を葬った時、周の天王・叔服(シュウフク)を会葬せしめし折り、魯の宰相・公孫敖(コウソンゴウ)、内史「叔服」よく相を見る事を知り、我が子二人の相を見せたとあります。

その後の運命を予見し、二人はその通りの人生を送ったと、語り継がれています。

叔服の後のそれを継いだ人に、有名な姑布子卿(コフシキョウ)があり、その観想物語は、孔子の幼児に父の依頼によりその非凡なる相を見抜き伝えたとあるのは、相法史上有名な観想例である。

その孔子の特徴は、頭の中央部に凹み孔のような形をなし、周囲は凸状をなし、あたかも丘陵を見る感じがした様子から、後に「孔丘」と言う特異な相であったと言う事が記されています。
ちょうどわかりやすいのは、おそ松くんの「ちび太」の頭の形です。

史記にも扞頂(カンチョウ・・・最上級と言う意味)と著されています。

また、紀元前500年のインドでは、浄飯王(ゾウボンノオウ)、麻耶夫人の妊娠に際し、500人の相師を集め相せしめた折り、一人の老師進み出て、誕生する児の凡常ならざることを告げます。

やがて世を救う仏陀の降誕を予言したと、経典(仏所行讃)にあります。

このころすでにインドにおいては、相法が研究されていたことを示し、事実仏教経典の中にも相学の極意とされているような経文(法華経・金剛経)が説かれています。

人相学を研究していた人は、世界中にたくさんいますが、やはり一番有名な人は、先にも述べた孔子と孟子だと思います。

孟子の言葉にこうあります。

「人に在る者は、眸子(ボウシ・瞳の事)その悪を掩こと能はず、胸中正しければ即ち眸子瞭かなり。胸中正しかざれば則ち眸子曇り、その眸子を観る。人いづくんぞかくさんや」とあります。

則ち、人は目を見ればその者が悪い事を画策しているかどうか分かるし、心改める事が出来ればその瞳は輝きを取り戻す。その逆も然りであると言う事を言いているのです。

確かに目を見ると人の感情をおおよそ指し図る事が出来ます。

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日本の人相学のルーツ

これは、良く私の記事でも書いていますが、日本の人相学のルーツは「水野南北」と言う男が創ったと言われていますが、彼の人相学の基本になった相法は大陸より伝来したものだと言われています。

おそらく、日本に初めて持ち込まれたのは、西暦513年頃の事と言われています。

その当時に日本は、百済(現在の韓国の西部)と交流があり、当時の最高頭脳と言われてた役職の「五経博士」が渡来したことで日本へ持ち込まれたと言われています。

易書に関しては、正式には540年に百濟より欽明天皇に献上されたとあります。

その後、鈴鹿の一老人が天武帝の皇祚(コウソ)を践ことを相した記録があり、日本の国相学の始まりは、西暦500年頃と推定されます。

また、聖徳太子は仏教に篤く深く感銘を受けていたと言うのは有名な話ですが、聖徳太子相法伝と言う書が残されています。

特に学問の出発点とされていた長崎では、鶴塞翁と言う人物が、かつて中国に渡り、「白峯」師に学んだとあります。

帰国後、京都に住む、多くの弟子、初代・石竜子、源光導師、日向の北渓道人等を育てます。

そして、人相学の大家として名高い「水野南北」は、大陸よりであった人相学を日本人ならではの相法へ昇華させた人物として、現代人相学の祖として人相家の間では源流・ルーツとして扱われています。

特に水野は、晩年「食」と人相についての研究を盛んに行っており、相法の極意は食に在り、「命は食にあり」と言いきっていたそうです。

しかも、現在よく言われている一物全体食を当時から推奨しており、病気は顔に出ると言う書物は、現在もまだ解説書が幾多の人によって出版されています。

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まとめ

人間の顔や体型、そしてその生活様式までを占いに昇華させているのは、この人相学のみだあると言えます。

幾多の学問の中でも、健康について医学博士が文献として参考にするのも人相学です。

人は見た目で判断してはならない言われていますが、やはり見た目から入ってしまうのが人間の嵯峨ですね。

そして、もうワンク上になれば、どの様な運をまとうのかと言う感覚で人相学を活用してみてはいかがでしょうか?

その為には、どのような在り方を示さなくてはならないのか、どのような感覚で人に接しなければならないのかなど様々な方法が見えてくるはずです。

それでは今日はここまで!

最後までお読みいただきありがとうございました。

あなたに幸福が訪れますように、ごきげんよう!

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